2013年1月31日

京都大学を退職するにあたって

(写真: http://www.flickr.com/photos/romanketchup/2867937983/, licensed CC-BY, edited by Kenji Rikitake)

2013年1月31日付けで,京都大学を退職する.体力の限界に達してしまったからである.

退職することを決めてからそれほど時間の経っていない今, 多くをあまり語る気にはならない. 守秘義務のある身でもあり,そもそも多くを語ることはできない. とはいえ,最小限の事実は,書いておこう.

2012年11月からの3ヶ月間,休業していた.正確にいえば,病気休暇を取って療養していた. 病名は「うつ状態」.いろいろなことが重なって,10月末には知的にも,体力的にも,速度も集中力も 著しく鈍くなってしまっていた.そこでかかりつけの医師に相談したら,すぐに休養すべきと判断されて, この病名の診断となった.

24時間1年中戦わなければならない日本の社会では,病気で休暇は取りにくい. なにしろ皆勤が是とされ,苦痛にあえぎながらラッシュアワーの電車に乗って出勤し, 這ってでもカイシャに行くのが賞賛される社会である. まして管理責任を持つ立場であれば,その責任が取れなくなる状況となることは許されない. 言い方を変えれば,管理責任のある立場の者が病気で長期間の休暇を取るということは, 実質的に退職するということを意味する. それでも病気休暇を取ったのは, この状態で仕事を続けたら二度と再起できなくなるだろうという予感があったからだ.

本来,大学の教員という職業であれば,もう少し時間的にも体力的にも余裕を持てても良かったはずである. しかし,

  • 職場でも出張先でも研究ではなく業務対応が最優先であったこと,
  • そしてその業務が一刻を争うものであったこと,
  • さらに業務関連の会議だけのために長距離出勤を繰り返し余儀なくされたこと,
これらが重なって,くたびれ果ててしまった,というのが正直なところである.

どれくらい疲れていたのかは,自分ではよくわかっていない. ただ,2012年11月上旬に病気休暇に入ってから,普段ならまずない深刻なカゼを引いてしまったことを考えると,かなり重症だったように思う. そして,2012年の4月以降のこと,特に10月に入ってからどんなことが起きていたかについて,記憶があいまいになってしまっている. 思い出そうとすると,モヤがかかったようになり,その先に進めなくなるのだ. だから今はあえて思い出さないようにしている.

病気休暇中の3ヶ月は,日常生活を着実にこなすことに努めた.多くはあえて書かない. しかし,この2年半あまりの間にできていなかったことを,かなり取り戻せたとは思う. 歩く量が減ってしまったため,脚力が下がったのは,改善しなければならないとは思うが.

今回の退職にあたり,ひとつ反省すべき点があるとすれば,1990年4月〜1992年4月までの 日本DEC在職時にイヤというほど痛感した長距離通勤,いや通勤そのものの怖さを甘く見ていたことだろう. 通勤は身体を蝕む.それもかなり深刻に蝕む.残念ながら私はこの生活に耐えられなかった.

今後の自分の人生について, 1ついえることは,Erlang/OTP,そして分散システムにかかわり続けていくことは確実だと思う. ただ,情報セキュリティはもはや「研究」の対象たり得ないところまで世の中は変わってしまった. 情報セキュリティは本来の「安全保障」であるセキュリティの専門家がやるべき仕事になった以上, 私のような強靭な身体を持たない者は手を引くべきだろうと考えている. そして,今回の退職で職業研究者としての自分のキャリアは一度終わったと思っている. とても残念だがこのことは認めなければならない. もちろん,日々の生活の中で,研究者的態度と探究心は維持していくだろうし, それがなければ技術者,いや人間としての自分を維持できないことは自明ではあるのだが.

最後に,かつてお世話になった研究者のTweetを紹介する.至言である.

「ちなみに大学は個人のパフォーマンスがすべてなので、体調を崩さずにトップパフォーマンスを維持できる人にしか向いてない。 ときどき、大学教員に転職して愚痴ってる元会社員がいるけど、考えが甘いと言うしかない。」 (https://twitter.com/youki10/status/271274995303448579)

2013年1月2日

今時のアマチュア無線 (3): 怨嗟と復讐の果てに

年の始めに似合わず物騒なタイトルだがご容赦を.

タイトルの「怨嗟と復讐の果てに」というタイトルでGoogle検索をしたら, 山のようにオンライン小説が結果に出てきた. それだけこのテーマは古典的なものなのだろう.

怨嗟と復讐の果てに見えるものは,常に廃墟でしかない. 最近,特にその寂しさを感じるようになった. しかし,復讐を遂げることなくして,その廃墟には辿りつかないのもまた事実. 仮に復讐のために時間を無駄にしたと後悔したところで, 記録はそこに残っている.すこし,その記録について述べようと思う.

自分の人生は,常に罵倒されることと,復讐の繰り返しだったと思っている. その始まりはアマチュア無線だった.後にコンピュータに手を染めた時も, 技術者/研究者人生を始めた時も似たようなことはあったのだが.

1976年に小学校5年生でアマチュア無線を始めたとき,周囲の反応は冷やかだった. たかが11才のガキが何を言ってるんだ,というのが世の中の現実だとその時知った. ましてや1.5Wの無線機に半波長ダイポールですらないただのホイップアンテナでは, いくら人の多い6m(50MHz)バンドでも誰も相手にしてくれないのも無理はない. アマチュア無線もまた社会の縮図であり,何も知らない子供が出ていくところではない. でもそんなことは誰も教えてくれなかった.いや,教わりようがなかったかもしれない. 周囲に無線の経験者はいなかったのだから. BDXというコールサインを「バカ,ダメ,バッテン」と罵られたことは今でも忘れない. 子供にアマチュア無線をやらせてはいけない,というのは半ば真実だったと思う. 2013年の現代なら,さしずめ「インターネットリテラシー」と同様の問題として 取り上げられるだろう.

1980年代後半に430MHzや1200MHz両バンドのUHFの 無線のパケット通信に手を染めたときも, 多くのアマチュア無線家が冷やかな視線を向けてきた. 当時はまだCQハムラジオ誌には筆者自宅の住所なるものが公開されていて, パケット通信の原稿を書かせてもらっていた私は, ごていねいに匿名の脅迫ハガキを受け取ったこともある. 現代ではこんなことが起こったら個人情報保護法違反で大騒ぎしそうだが, ネットの世界で似たようなことが起こっていることを思えば, 今も昔も卑怯な奴等というのは変わらず存在するのは同じだ.

そのパケット通信の世界でも, TCP/IPやNetNews/USENETが未来だという主張を受け入れた人達はほとんどいなかった. 1980年代当時のパケット通信を仕切っていたのが 現在でも強大な設備を持つ短波HFの遠距離交信を競う DXer達であったこともあって, およそHFのアンテナなど上げようのない立場だった 自分とは意見の一致のしようがなかったことを覚えている. だから今もDXerという言葉は好きになれない. もちろん真にDXerと呼んでリスペクトすべき人達も存在することは確かなのだが.

2002年の夏に思うところあってHFの電信(CW)を始めた時も, どこぞの匿名掲示板で何やら難癖をつけられたことがある. かようにアマチュア無線家と匿名掲示板というのは相性がいいらしい. 本質的に(自分を含めて)根性の悪い連中の集まりだからだろう. まあ,こんな連中を黙らせるには,相手にせずにさっさと自分が先に行ってしまうのが 一番の早道であるというのは後で実感したことだが. その後2003年にさっさと日本の第1級アマチュア無線技士と米国のAmateur Extra級の 資格を取ってからは,誰も免許のことで文句は言って来なくなった.

この10年HFをやってきて感じたことは, 結局のところ成果を出せば誰も文句は言ってこなくなるということ. そして,復讐を遂げたと思ったころには,競技場には屍しか残っていないということ. 言い換えれば,文句を付けて恨み言を述べるべき相手は, すでに死んでいるか,ゲームから降りているか,あるいは黙って首を引っ込めているかの どれかだということだ.

(写真は私が2009年9月にARRL DXCC Challengeアワードの盾をもらった時の記念に撮ったもの.)

2002年からの10年強の間に, 世界各地との交信を競うDXCCアワードにて ただのワイヤーアンテナと100Wで250エンティティ以上を叩き出し, 80m(3.5MHz)〜10m(28MHz)の8バンド合計で1100エンティティ以上の交信を実現できたことに 文句はいうまい.率直な話,幸運だと思っている. あの1976年に私をからかった人達が,この記録を見て,何と言うだろうか. 残念ながら,彼等の多くはもうアマチュア無線を止めているのだが. 当時の自分に語ることがあるとするなら,親父が言っていた 「今無線をやらなくても,いずれやる機会はあるさ」 ということだろうか. あえていえば,高いところにアンテナを上げるためのタワーも ハイパワーで運用するためのリニアアンプも持たないでいるが故の 限界は感じているかもしれない(笑).しかしこれは怨嗟ではない. ライセンスはあるのだから,やれる時にやればいい.

そんなわけで,今年からはマイペースで行こうと思う. 技術的にはまだまだやり残していることがあるし, 運用の世界でもまだまだ学ぶことはありそうだ.

最後に余談を. 日本アマチュア無線連盟(JARL)というのは,詳細は控えるが, 今の日本の製造業大企業をもっと悪くしたような最悪の組織である. 先代の会長は独裁政権を40年以上も続けていて,その弊害は著しい. かつてJARLの批判記事をWeb日記に書いたら「そんなことは言うもんじゃない」という 忠告があった.社会主義のソ連ではないが,それだけ日本のアマチュア無線の 世界は硬直しているのである. しかし,そのJARLも,いまや組織としては瀕死の状態であり, いつ崩壊してもおかしくはない.もはやそこにかかわっている人達の多くが, 組織の保存という自己目的化のためだけに活動しているような状況である.

でも,もはやJARLとはかかわらなくても,何の問題もなくなってしまった. 総務省とは免許の上でお付き合いが必要だが,JARLは支援しなくても アマチュア無線は十分楽しめる.紙のQSLカードだけがJARLの存続する 最後の理由だったのだが,今や交信証明というQSLカードの目的は Webサイトで十分実現できる.そして交信証明の必要なアワードが 自らそのデータベースのためのWebサイトを運用するという ビジネスモデルを米国の無線連盟であるARRLが実現してしまった現在, JARLの存在意義は無きに等しい. これはビッグデータならずともデータベースの積極的活用を推進している米国と, ビッグデータへの理解も技術もない日本との彼我の差が如実に出た例と言えるだろう.

日本に生まれ日本に住み日本の免許を持ち日本で電波を出している者としては 現在の日本の状況は甚だ残念だが,今後も日本以外の世界を見据えて せいぜい楽しんでいきたいと思う.これはアマチュア無線の世界だけではない 話になりそうだが.

そして,この話も「今時のアマチュア無線」の実情である.そう思って読んでいただければありがたい.