2013年12月30日

ドイツ雑感 その2

(写真: Kenji Rikitake)

もうドイツに旅行してから4ヶ月近く経過しようとしている.忘れないうちに当時の感想を記録しておこう.

英語は一切書かれていないドイツの航空小荷物

最初の写真,いや,伝票の写しはDeutsche Post/DHLのEU域外向け荷物(日本郵便のEMSに相当)の裏面である.ご覧の通り,一切ドイツ語以外の言語は書かれていない.つまり,ドイツ語が読めなければドイツでは生活できないのである.これを当たり前と思うかそうでないと思うかは人それぞれだと思うが,私はドイツ語の教育を受けたことは一度もないので,内容については大体のアタリをつけながら想像を巡らせるしかない.ドイツ語話者の妻の助けがあるとはいえ,これはかなり大変な作業であった.

この伝票については日本から日本郵便で小形包装物あるいはEMSを送ったことがあれば難しくはないのだが,要するに税関申告書(Zollinhaltserklärung)にもなっているのでその部分を書かなければならない(この内容は英語でOK).ドイツ語localeのせいで小数点がコンマになっていたり(英語以外の言語ではコンマである方がむしろ一般的)するのはまだご愛嬌だが,このZollinhaltserklärungという単語が実は「Zoll 税関 + inhalts 内容物(属格,「〜の」)+ erklärung (説明)」という複合語になっているというのを見抜かなければならないのがかなりの苦痛だったりする.

伝票の表書きも示しておこう.Paketkarte CP71というのがそうだ.妻宛にしてある.プライバシー保護のため一部白抜きにしてあるのはご容赦いただきたい.こちらは万国郵便条約に則り,ドイツ語とフランス語でしか書かれていない.英語はこの面にも一言も書かれていない.幸いフランス語は多少読めるのでこちらの内容を読むのには不自由しなかった.日本郵便も同様の伝票を使っているので,内容については対応付ければ理解できるだろう.発送日が日-月-年の欧州標準になっていたり,通貨単位が数字の後に付くのは,これもまたドイツ語locale所以である.繰り返すが,英語はどこにも書かれていない.

法人納税番号が領収書にも書いてあるドイツ

次はドイツでもらったレシートである.これらにも英語はどこにも書かれていない.Thalia.deというのはブレーメンの書店で,KaDeWeはベルリン有数の百貨店である.Steuernummer(納税番号)というのがそれぞれの領収証には必ず記されている.日本も現在「社会保障と税に関わる番号制度」あるいは「番号法」の施行に向けて準備が進んでいるが,こんな感じになるのかと思っている.ドイツの付加価値税は7%または19%の二通りであり,生活必需物資として認定されたものは7%になるが,その区別は必ずしも明確ではないようだ.

ちなみにThaliaで買ったのはシステム手帳のリフィル,KaDeWeで買ったのはお茶(紅茶)である.

自動販売機は動くと思ってはいけない

ドイツの自動販売機では苦労した.ベルリンのTegel空港(TXL)では,ミネラルウォーターの自販機が壊れているにもかかわらず何も表示がされていなかったため,みすみす数ユーロを損してしまった.近場のバーに人が並んでいたのはそういう理由だったのだ.人間の方が自販機よりも信頼性が高いというのがドイツ社会の常識なのだろう.(帰国の際TXLでは自販機だけでなくトイレまで一部修理中なのには参った.)

幸い市電や地下鉄の券売機でハマることはなかったが,硬貨を数えるスピードが遅く,1枚ずつ入れてそれぞれが問題なく認識されるのを確認しないといけないのは参った.北米でも自販機が壊れているのは珍しくないのでその意味では驚きはなかったが,日本のようにうまくいくと思ってはいけない.

オルデンブルクとブレーメンを往復する際も,数十ユーロというかなりの高額な支払いにもかかわらず,Deutsche Bahnの券売機の反応速度が遅くて,非常に困った.英語表示に切り替えることはできるのだが,それだと何が書いてあるのかわからず,結局ドイツ語の表示を読みながら買わざるを得なかった.

東京とベルリンとの人の流れの違い

今回はベルリンに長く滞在したのだが,大都市であっても東京ほどピリピリした感じはない.各自勝手な速度で,勝手に歩いている.大阪や京都も東京に比べて人の歩く速度にバラツキが大きく妙に邪魔な感じがしてイライラしてしまうのだが,ベルリンの場合はあまり混んでいないせいか,追い立てられる感じはあまりなかったように思う.鉄道にも乗ったが,エレベータの前では皆我慢強く並んでいる.単にノンビリしているというのとは違う感じを受けた.やはり日本の大都市は人口密度が高過ぎるのであろう.

いずれまた続きを書くこともあるかもしれないが,まずはここまで.

2013年9月30日

Bashoジャパンを退職します

このたび,Bashoジャパンを2013年9月30日にて退職することとなりました.

在職中お世話になったBasho Technologiesの皆様,特にBashoジャパン株式会社の方々には,深く感謝します.彼等のチームの一員となったことは忘れられない経験となるでしょう.

Basho参加以前からそうであったように,退職後も引き続きRiakとErlang/OTPを私は支援していきます.

今後のことは未定ですが,引き続きコンピュータ,そしてインターネットの開発者/運用者のプロフェッショナルコミュニティの一員としてかかわっていくでしょう.いろいろな困難が待ち受けているかと思いますが,受けて立つ所存です.

在職中ご支援いただいた方々に改めて御礼申し上げます.

2013年9月9日

ドイツ雑感 その1

(写真: http://www.flickr.com/photos/spablab/172302861/, photo taken in 1988 before the Berlin Wall was fallen, licensed CC-BY, edited by Kenji Rikitake)

諸般の事情により,ドイツに滞在している.人生について考える機会が欲しかったのと,ロンドンでErlangの話をしてくるという仕事もするという,欲張りな旅である.

最初の街はBremenだった.「ブレーメンの音楽隊」で有名な場所だ.妻の知人が近隣のOldenburg(オルデンブルク)におり,彼等を表敬訪問するのも旅の目的の1つだった.ブレーメンもオルデンブルクも人口はそれほど多くなく,日本の感覚では大都会とはいえない.ただ,市電から市内中心部のAltstadtへのアクセスは良く,物資の調達に何度か行った.ブレーメンは北ドイツに属し,その文化は北欧に近い.地名も食べ物も,昨年行ったデンマークのコペンハーゲンに割と似ている.街並みは,1970年代の米国滞在の時の経験を彷彿とさせる,ゆったりしたものだった.そういえば1974年のBoulder, CO, USAは,こんな感じだったなあ,という記憶がよみがえってきた.

そして今はBerlinにいる.写真は冷戦終了前のBrandenburger Tor(ブランデンブルク門)を西側から見た写真だ.今はもう壁はない.私もUnter den Linden通りにある門の下をくぐり,Friedrichstraße (フリードリヒ通り)まで歩いた.誰にも尋問されず,逮捕されることもなかった.なぜこんなことに感慨を覚えるかといえば,冷戦時代を知っているからだろう.フリードリヒ通りの前にはロシア大使館があった.これは昔はソ連大使館だったのだろうか.もっとも,すでに東西ドイツ統一から23年近くが経過している今,ベルリンは普通の街である.ただ,旧東ベルリンは,未だ復興中の感がある.

ベルリンでは,どこで買い物するか,どうやって移動するか(U-bahnという地下鉄が主,観光には2階建のバスも悪くない),物の値段,インターネットアクセス(後述するが良い環境とはいえない),その他の基本的な生活に必要なことから覚えていっている.日本帰国までの間は,ベルリンを拠点にして,一度ロンドンまで往復する予定なので,できるだけこの街には親しんでおきたいというのもある.IFAという家電の国際展示会にぶつかったようで,滞在しているホテルには韓国の人達が多かった.ついでに私もIFAに2時間弱だけ行ってきたが,その印象については稿を改めたい.

ベルリンに来るまでは,各所を長距離鉄道(DB)で移動した.安全と快適さ優先で一等車(1. Klasse)を使ったが,日本でいえばさしずめJRの特急という感じの乗り心地である.どの街にもHauptbarnhof (Hbf,中央駅)があり,交通の要衝になっている.Bremen Hbf - Oldenburg Hbf は40分ぐらい片道でかかる.一方, Bremen Hbf - Hamburg Hbf - Berlin Hbf の間の移動は,かなりの長距離であったにもかかわらず,都合3時間強で済んだ.ハンブルクの中央駅では一度妻の分を含めてスーツケースを多数下ろして,次の電車に駆け込むという離れ業をやった.ちょうとJR西日本でいえば,大阪駅か京都駅の雰囲気である.おかげで筋肉痛になったが….

以下は雑感である.

ドイツでは英語はあくまで外国語,表示は全部ドイツ語だけ

その昔カナダ・ケベックのモントリオールでは,商品の表示は英仏両方がほとんどだったものの,街の表示はフランス語しかなく,かなり大変だった.しかし,ドイツではケベックよりもさらにドイツ語以外での表示は少ない.ブレーメンもベルリンも,基本的に街の表示は全部ドイツ語である.例えば「火災時はエレベータに乗るな」というのは „Aufzug im Brandfall nicht benutzen“ としか書かれていない.あえて各単語の意味は書かないが,英語からはまったく想像がつかない.それに,仮に英語表示があったとしても,その多くはドイツ語から単語を置き換えただけのモノであり,読んでいてよくわからなくなってしまうことも多々ある(ドイツ語ではどのように言うのかを知っていれば問題は起きないが).つまり,英語だけ知っていても街を歩くには全く役に立たないのがドイツ連邦共和国の実情である.もちろん,街の人達,特に若い人達は日本とは違って簡単な英語での交渉事には応じてくれるし,その意味では日本よりもずっと親切だといえるが,とにもかくにもドイツの公用語はドイツ語だけであり,その他の言語は公用語ではない.ケータイのプリペイドSIMカードを使うにも,ドイツ語の知識は必須である.開通時のSMSは英語では送られて来ないからだ. この旅行がドイツ語を第2言語として縦横無尽にあやつる妻と同伴でなかったら,大変困ったに違いない.

ドイツのモバイルインターネットはかなり悲惨

ベルリンはドイツの首都である.そのベルリンでさえ,インターネットを使うにあたっては,ホテルの回線が良くないと相当苦しむことになる.ドイツのケータイは未だ多くがGSMベースであり,その上のデータ通信であるEDGEに対応した端末が必要である.しかも鉄道の中では,路線によっては無線LAN(有料)を提供しているものもあるが,基本的には使える帯域は非常に小さい.Twitterぐらいしかできないと思ったほうがいいかもしれない.日本から3G/LTEルータを持っていき,T-Mobileのデータ用SIMカードを挿して使おうとすると,場所によっては3Gにアクセスできず,使用不能になることさえある.ブレーメンでも基本的な事情は同じである.日本の極楽なモバイル環境を当たり前だと思うと,泣きを見ることになるのは確実である.

他のことについてもいずれまた書きたいと思うが,まずはここまで.

2013年8月2日

電子情報通信学会の技術研究報告に関する電子的利用の方針についての要望

本日,以下の文書を,電子情報通信学会 サービス事業部 会員課に対し送付し,同会著作権管理委員会に取り付いでもらうよう要望しました.諸々の問題があることは承知していますが,オープンアクセスが学術学会でも当たり前になっている現状を鑑みる限り,何らかの方針を早急に決める必要があると思っています.


電子情報通信学会 著作権管理委員会の皆様

貴会における技術研究報告に関する電子的利用の方針について,以下の通り要望します.

  • 貴会の著作権規程の基本方針についての以下URLから引用できる文書では,電子的利用の方針について,「技術研究報告につきましては引き続き検討中」とあります.この文書は平成20年4月の理事会にて決定された内容が記されており,すでに5年以上の時間が経過しておりますが,以下の事項について,ご回答いただきたくお願い申し上げます.

    • その後の検討結果はどのようになったのか
    • 仮に検討結果が確定していない場合,いつまでに検討が終了し,結論が出る予定か
    • 5年以上経過しても検討結果が出ていないことについての経緯の説明
    • 参考URL: http://www.ieice.org/jpn/about/kitei/chosakukenkitei.html
  • 以下の参考URLに述べられている利用申請基準では,「技術研究報告については、論文全文の電子媒体での利用については検討中であり、利用は不可である」とあります.電子的な公開があらゆる学術学会の研究報告で一般的になりつつある現状を考えた場合,この文言はすでに時代錯誤であると言わざるを得ません.
    つきましては,一刻も早く,技術研究報告の電子媒体での利用についての規程を整備し,少なくとも著作者自身が自分の技術研究報告全文を論文誌の論文同様に公開できるように(利用申請基準の例外事例1に相当する条件で)体制を整えていただきたく要望します.

現状のままでは,電子情報通信学会の技術研究報告を書く意味が事実上否定されているに等しいということを,著作権管理委員会の皆様にはご理解いただく必要があるのではないでしょうか.

以上,Web上でもメールでも結構ですので,ご回答いただきたくお願い申し上げます.

平成25年(2013年)8月2日

力武 健次
電子情報通信学会 シニア会員

2013年8月6日追記: 本件について,電子情報通信学会 会員サービス部より,「要望受け承りました。関連委員会で検討して、ご回答いたします。少しお時間を必要としますので、ご了承ください。」という旨のメールの返信を得ました.

2014年4月6日追記: 本件に関し,電子情報通信学会の「本会出版物に掲載された論文等の著作物の利用申請基準」が2013年10月24日に改訂され,技術研究報告についても論文誌同様の判定基準によって,「非営利目的による利用かつ同学会の利益を不当に侵害しない範囲における利用」であれば,利用申請不要となったことを確認しました(関連規定のページ,「利用申請基準」のPDFを参照).関係者の方々のご努力に感謝すると共に,引き続き完全オープンアクセス化への努力を継続していただきたいと考えます.

2013年7月31日

2013年の暑くて厳しい夏

(Photo: Kenji Rikitake, 大阪モノレール柴原駅,2007年10月撮影)

今年2013年の夏は,非常に厳しくてシンドイ感覚が続いている.今年6月中旬に個人的な大事件があって,それ以来あまりまともに仕事ができていない状況が続いている.昨年2012年11月からの3ヶ月間にわたった病気休職と併せて考えると,かなり厳しい状況だと言わざるを得ない.近々自分の生き方そのものを大きく変えなければいけない転機に来ていることは間違いない.これは誰かに頼っていればどうにかなるものでもないことは重々承知している.ただ,こちらの予想しないタイミングでこんな転機が来るとは思っていなかったこともあり,いささか戸惑っているのも事実だ.

もっとも,本来生きていられるのは奇跡みたいなもので,未来永劫不変の自分があるわけでもない.昨年2012年の7月末の状況と比較してみると,今の自分の周囲は大きく変わっている.それまで当たり前だと思っていた多くのものは,別のものに置き換わっている.まさか日常生活がすべてMacベースになるとは,1年前は想像していなかった.実験用機器はFreeBSDのままだし,必要に応じてWindowsやUbuntuも実機で使えるよう整備してはいるが,GUIが変わっただけでこれだけ生活が変わるとは正直言って予測も想像もつかなかった.

コンピュータの前に向かう時間は,1年前よりもはるかに長くなった.そして体のことを考えて立ち机で仕事をするようにもなった.腰のこと,脚のことを考えたら,これは必然だったかもしれない.このへんのことは,The Setupにインスパイアされた英文の記事にまとめている.

今後のことについてはいずれまた書く機会もあるだろうと思う.ここ数週間の折々の気分については,Mediumに書くことが増えた.Twitterの延長みたいな感じで使えているからかもしれない.

しばらくは時間との戦いを,瀬戸際戦略的に続けていくことになりそうだ.

2013年6月9日

ついていけない話題

2012年3月に自分が「ついていけない話題」についてリストを作っておいた.このリストをもとにMedium.comでの最初の記事を書いたので,ついでにこちらに原文を残しておく.ホンネの一部は,medium.comの記事の方で書いているので,そちらを見て欲しい.


  • (特に日本酒とワイン)

  • (乗りません)
  • バイク
    (これも乗りません)
  • 自転車
    (これも乗りません,乗れますが)
  • プロ野球
    (巨人V9時代以降あまり興味ありません)
  • プロサッカー
    (ワールドカップはおもしろいけど)
  • テニスほか球技
    (できません,カジュアルな卓球は別)
  • スキー
    (昔やったことはありますが「私を…に連れてって」以来印象がいまいちです)
  • ハードロック
    (曲は好きだけど)
  • 食べ歩きのグルメ
    (興味が失せつつあります)
  • 写真
    (情報伝達の基礎教養程度は身についていると思いますが,高度なテクとか機材のウンチクはつらいかも)
  • ゲーム
    (ファミコンを含み一切のゲームコンソールを所持していません)
    (思考ゲームは面白いと思うけど)
  • ピアノ
    (弾けません,オルガンとシンセは弾いてましたが)
  • バンド
    (組んで成功したことがありません)
  • ファッション
    (聞かないでください)
  • ホイチョイプロダクション的な世界
    (バブルとは縁がないので)
  • 戸建の家
    (住んだことがありません)
  • 子育て
    (結婚する時点でトライするのを止めました)
  • 温泉旅行
    (アトピーに良くありません)
  • 団体旅行
    (仕事ですら疲れるのに…)
  • アニメと漫画
    (マンガ本は家にありません,昔は少年マンガの単行本でサイボーグ009とバビル2世はありましたけど,あ,鉄腕アトムもあったかな)
  • アウトドア系の話
    (文明のないところで暮らすのは苦痛です)

2013年5月15日

シンセもCDJもドラムマシンも手放した

先日,ギターに引き続いて,シンセもCDJプレーヤーも,そしてドラムマシンも手放した.どれも愛着のある機械であり,性能も良いのだが,結局使い切れなかったというのが本音である.一切の楽器を手放したのは,実に1978年から数えて35年ぶりである.もっとも,最近のコンピュータはソフトウェア楽器にすぐなってしまうので,これはあまり意味のないことかもしれないが.手放した機材のうち,CDJ-800とMicroKORGは,どちらも実際のレコーディングで大活躍してくれた.幸い状態も良く,次のオーナーには十分活用してもらえるだろう.

この写真は2007年の夏に撮ったものだ.2013年5月現在,いまだにSoma FMで使ってもらっている.DJのフリをするのは,この写真の通り私にもできる.ただ,本格的にビート合わせとかスクラッチでやろうとすると,非常に高い技術を身体に覚え込まさないといけない.そこまでの努力は私にはできなかった.キーボードも両手ではまともに弾けないし,ギターも速弾きができるわけではない.どれも中途半端だったように思う.

音楽演奏はすてきな活動だと思う.ただ,昨今の技術の進歩は,素人が安易に音楽を作れないほど楽器の性能を上げてしまった.作り込まれた作品に価値がないとはいわないが,パフォーマンスの要素を欠いた音楽には,もはや商業的価値すらないだろう.ライブのできない人に,ミュージシャンを名乗る資格はないと思う.そんなわけで,すでに作曲からは2007年の夏に手を引いたのだが,演奏にはまだ未練があった.しかし,過去21年間にレコーディングした回数が10回に満たないという事実を直視すれば,自分にはもはや音楽演奏の道を追求する資格はないように思う.

実は音響編集のための機材は,まだ手元に置いている.ちょっとしたプレゼン用のビデオぐらいは作れるようにしておきたいからだ.趣味としてのラジオ/無線にも使えるからでもある.作り込むことを追求する楽しみは,まだ持っておきたい.

2013年5月4日

ギターを手放した

先日ギターを手放した.すでに改造を加えていて,しかも何年も弦を張り替えていないものだ.ここ数年まともに弾いたのは,クリスマスの時だけである.リサイクル屋でギターを個別に引き取ってくれるところがあったので,送った.ピックや弦を巻く装置,専用の弦カッターなども全部手放した.

実は手放したギターはこれで3台目になる.1台目の1978年に買ったYAMAHAのフォークギターは,21世紀になる前に廃棄処分にした.2台目の1980年に買ったレスポール型の日本製(ARIA PRO II)のギターは,大阪に1992年に移り住む前に,今ならとんでもない高値が付くであろうBOSSのOD-1と一緒に知人に譲った.

今回手放したのは2001年に買ったフェルナンデスのZO-3である.内蔵のアンプは外して,1石FETのプリアンプを組み込んだ.当時は高輝度LEDが世の中に出回り始めたころで,象の目にあたるところは緑色に輝くようにしてある.

手放した理由は簡単だ.ろくに練習もしていないし,もはや左手でビリ付きなく弦が押さえられなくなっているからだ.こんな状態では,まともに他人に聞かせられるような演奏はできない.

1982〜1983年の高校生のころは受験そっちのけでキーボードもギターもヘタながらに自己流で一生懸命弾いていたけれど,そのころの演奏能力が実は自分にとってはピークだったのだと,最近思い知らされている.最後に多重録音をやったのは2007年だが,その時はリズムも運指もガタガタのフレーズを全部ループにして編集しているので,まともに演奏していたとはとてもいえない.

音楽は身体性そのものが問われる芸術である.演奏は特にそうだ.よほど普段から練習していなければ,まともなものはできない.そして音楽に限らず,あらゆる創作行為は,すべて真剣勝負で身体に覚え込まさなければ一流にはなれないのが非情な現実だ.

プログラミングの現場に戻って,自分が如何にナマケテいたかを思い知らされている.自分が楽器を止めても誰も困らないだろうが,コーディングでいいかげんなことをしたら,タダでは済まされない.

そんなこともあって,ギターを手放した.まだシンセやドラムマシンは残っているが,これらに触れる時間は,当分来ないだろう.

2013年3月27日

ボヤ騒ぎとErlang Factoryはサンフランシスコの華?

(写真: 筆者の発表前の様子,原 陽亮さん撮影)

2013年2月にBashoジャパンで仕事を始めてから,それまでとは打って変わって忙しい日々を過ごしている. 寝る時間と食事の時間以外は(通勤時間は激減したものの)移動しているか,新しい仕事の手順を覚えているか,物書きかコード書きかテストかサポート対応をしているか,あるいは人前で話をしているか会議をしているかという状況である. それまでやっていなくて苦労したことは無数にあるのだが,とり急ぎいくつかかいつまんで並べておくと

  • Riak
  • Amazon AWS S3
  • AppleのMac関連製品とOS X
  • 日本深夜の電話会議
  • BlueToothの音声デバイスの使い方
  • GitHub
  • Google Drive
  • OS X用のMicrosoft Office Suite
  • Vagrant
  • ゴリゴリのErlangコード読み(これに関してはまた稿を改めて説明したい)
  • DTrace

…などなど,自分のスキルセットがいかに不完全で,研究者気取りの過去12年間はサボってばかりいたことが丸分かりである.反省している暇はないので,とにかくやるしかないのではあるが.

本論に入る.

2013年3月21日〜22日まで,米国サンフランシスコにて Erlang Factory SF Bay Area 2013の会議に参加してきた. 自分はアマチュア無線とRiakというおよそニッチなネタでの発表もしてきた. Erlang Factory SF Bay Areaへの参加は連続して4回目になる. この会議はどことなく「祭」の性格が強い. 特に昨年ダウンタウンのホテルに移動してからは,夜のErloungeが結構強烈で,皆ひたすら話し込むという大宴会の様相を呈していた.

今回は2011年の私の発表中に火災報知器が誤作動して全員一時退避した事件に続き,Erlounge中に火災報知器が誤作動してホテル内滞在者は全員屋外に退避するという,珍事が発生した. もっとも2011年のホテルでは地上階で発表をやっていたので退避は容易だったのだが,今回は11階の宴会場から退避せねばならず,全員真剣に階段を降りて行った.ホテル内には年配の宿泊者の方々も多いため, 移動は粛々とかつ整然と行われた.このへん騒ぎにならないところはさすがである.とはいえ,消防車が安全を確認した後,消防士と写真撮影をしていた人達がいたのには驚いたが. 観光客,あるいは居住者や市民への広報活動ということなのだろうけど,日本ではあまり考えられない光景である.「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるが, もはやこの会議では火災報知器の誤作動が伝説と化してしまった感は否めない.(さる本の筆者は安全確認終了後,再び宴会場に戻って飲み続けたとか….)

この会議,日本語母語話者かつ英語非母語話者である参加者が非常に少ないのが残念である.2010年は2人,2011年は3人,2012年は私1人,そして2013年は私,同僚であるBashoジャパンのリードエンジニア上西さん, OpenXの田中さん(米国在住),楽天研究所の原さんと4名しか確認できていない.日本からSFOは決して遠くはないし,Talkの質も内容も非常に濃いので,Erlang/OTPビジネスの動向を掴みたい人達は是非参加することを お勧めする.今年は本会議以前にもRaspberry Piで動かすErlang/OTPのチュートリアルや,OTPやRiakのトレーニングなど,楽しい企画はたくさんあったので,1週間滞在しても損はないだろう.

ところで今回は会議場から南に数ブロック下がったMarket St.の靴屋さんに同居しているBashoWest (Basho Technologies San Francisco office)で仕事をしていた. (階下にはimgur.comを運営するImgur, LLCのオフィスがある.) ここは大学の部室のような雑然としたオフィスであり,特に勤務時間の制約もなく,およそ日本の大企業のそれとはかけ離れた世界であったが, 皆真剣に仕事をしていて,活発な議論と雑談が行われていたことを記しておく.滞在中はScott Fritchieをはじめ,多くの米国の同僚に世話になり,充実した時間を過ごせた. これだけ密度の高い海外出張は人生初体験であり,いささか身体的には疲れたが,仕事はこうやらないといけないということを今さらながら実感している.

2013年2月7日

Bashoジャパンにて働き始めました

2013年2月1日より,Bashoジャパン株式会社にて,シニアソフトウェアエンジニアとして働くことになりました. 関係者の皆様には,私の就職にあたり,多大なるご協力とご支援をいただきました.厚く御礼申し上げます. 今後は,自分のソフトウェア開発技術の基礎から叩き直す覚悟で精進致します.どうぞ今後ともご支援のほど,よろしくお願い致します.

Basho TechnologiesにはErlangにおいても分散データベースにおいても世界第一線級のエンジニアたちが集まっており,日々新しいことを吸収していかなければ,自分がついていくことさえ難しいのですが,その分自分が今まで培ってきたものを最大限活用できる可能性のある場所でもあります.その意味で,大変ではありますが,充実した日々を過ごしています.現時点では,少なくとも1990年から2年間外資系企業で働いたことは間違いなく役立っています.

今後,どのような仕事を自分がしていくのかは,まだ予想がつきません.Bashoの分散データベースRiakはすでに各社の最前線で活用されており,多くの機能要求も出ています.これらの要求に対して,迅速な開発と高い品質の維持を持って応えることに貢献しなければならないことは言うまでもありません.そこに自分のネットワーク技術者,OSプログラマ,そしてシステム管理者としての経験がどれだけ活かせるか.そこが勝負です.

2013年1月31日

京都大学を退職するにあたって

(写真: http://www.flickr.com/photos/romanketchup/2867937983/, licensed CC-BY, edited by Kenji Rikitake)

2013年1月31日付けで,京都大学を退職する.体力の限界に達してしまったからである.

退職することを決めてからそれほど時間の経っていない今, 多くをあまり語る気にはならない. 守秘義務のある身でもあり,そもそも多くを語ることはできない. とはいえ,最小限の事実は,書いておこう.

2012年11月からの3ヶ月間,休業していた.正確にいえば,病気休暇を取って療養していた. 病名は「うつ状態」.いろいろなことが重なって,10月末には知的にも,体力的にも,速度も集中力も 著しく鈍くなってしまっていた.そこでかかりつけの医師に相談したら,すぐに休養すべきと判断されて, この病名の診断となった.

24時間1年中戦わなければならない日本の社会では,病気で休暇は取りにくい. なにしろ皆勤が是とされ,苦痛にあえぎながらラッシュアワーの電車に乗って出勤し, 這ってでもカイシャに行くのが賞賛される社会である. まして管理責任を持つ立場であれば,その責任が取れなくなる状況となることは許されない. 言い方を変えれば,管理責任のある立場の者が病気で長期間の休暇を取るということは, 実質的に退職するということを意味する. それでも病気休暇を取ったのは, この状態で仕事を続けたら二度と再起できなくなるだろうという予感があったからだ.

本来,大学の教員という職業であれば,もう少し時間的にも体力的にも余裕を持てても良かったはずである. しかし,

  • 職場でも出張先でも研究ではなく業務対応が最優先であったこと,
  • そしてその業務が一刻を争うものであったこと,
  • さらに業務関連の会議だけのために長距離出勤を繰り返し余儀なくされたこと,
これらが重なって,くたびれ果ててしまった,というのが正直なところである.

どれくらい疲れていたのかは,自分ではよくわかっていない. ただ,2012年11月上旬に病気休暇に入ってから,普段ならまずない深刻なカゼを引いてしまったことを考えると,かなり重症だったように思う. そして,2012年の4月以降のこと,特に10月に入ってからどんなことが起きていたかについて,記憶があいまいになってしまっている. 思い出そうとすると,モヤがかかったようになり,その先に進めなくなるのだ. だから今はあえて思い出さないようにしている.

病気休暇中の3ヶ月は,日常生活を着実にこなすことに努めた.多くはあえて書かない. しかし,この2年半あまりの間にできていなかったことを,かなり取り戻せたとは思う. 歩く量が減ってしまったため,脚力が下がったのは,改善しなければならないとは思うが.

今回の退職にあたり,ひとつ反省すべき点があるとすれば,1990年4月〜1992年4月までの 日本DEC在職時にイヤというほど痛感した長距離通勤,いや通勤そのものの怖さを甘く見ていたことだろう. 通勤は身体を蝕む.それもかなり深刻に蝕む.残念ながら私はこの生活に耐えられなかった.

今後の自分の人生について, 1ついえることは,Erlang/OTP,そして分散システムにかかわり続けていくことは確実だと思う. ただ,情報セキュリティはもはや「研究」の対象たり得ないところまで世の中は変わってしまった. 情報セキュリティは本来の「安全保障」であるセキュリティの専門家がやるべき仕事になった以上, 私のような強靭な身体を持たない者は手を引くべきだろうと考えている. そして,今回の退職で職業研究者としての自分のキャリアは一度終わったと思っている. とても残念だがこのことは認めなければならない. もちろん,日々の生活の中で,研究者的態度と探究心は維持していくだろうし, それがなければ技術者,いや人間としての自分を維持できないことは自明ではあるのだが.

最後に,かつてお世話になった研究者のTweetを紹介する.至言である.

「ちなみに大学は個人のパフォーマンスがすべてなので、体調を崩さずにトップパフォーマンスを維持できる人にしか向いてない。 ときどき、大学教員に転職して愚痴ってる元会社員がいるけど、考えが甘いと言うしかない。」 (https://twitter.com/youki10/status/271274995303448579)

2013年1月2日

今時のアマチュア無線 (3): 怨嗟と復讐の果てに

年の始めに似合わず物騒なタイトルだがご容赦を.

タイトルの「怨嗟と復讐の果てに」というタイトルでGoogle検索をしたら, 山のようにオンライン小説が結果に出てきた. それだけこのテーマは古典的なものなのだろう.

怨嗟と復讐の果てに見えるものは,常に廃墟でしかない. 最近,特にその寂しさを感じるようになった. しかし,復讐を遂げることなくして,その廃墟には辿りつかないのもまた事実. 仮に復讐のために時間を無駄にしたと後悔したところで, 記録はそこに残っている.すこし,その記録について述べようと思う.

自分の人生は,常に罵倒されることと,復讐の繰り返しだったと思っている. その始まりはアマチュア無線だった.後にコンピュータに手を染めた時も, 技術者/研究者人生を始めた時も似たようなことはあったのだが.

1976年に小学校5年生でアマチュア無線を始めたとき,周囲の反応は冷やかだった. たかが11才のガキが何を言ってるんだ,というのが世の中の現実だとその時知った. ましてや1.5Wの無線機に半波長ダイポールですらないただのホイップアンテナでは, いくら人の多い6m(50MHz)バンドでも誰も相手にしてくれないのも無理はない. アマチュア無線もまた社会の縮図であり,何も知らない子供が出ていくところではない. でもそんなことは誰も教えてくれなかった.いや,教わりようがなかったかもしれない. 周囲に無線の経験者はいなかったのだから. BDXというコールサインを「バカ,ダメ,バッテン」と罵られたことは今でも忘れない. 子供にアマチュア無線をやらせてはいけない,というのは半ば真実だったと思う. 2013年の現代なら,さしずめ「インターネットリテラシー」と同様の問題として 取り上げられるだろう.

1980年代後半に430MHzや1200MHz両バンドのUHFの 無線のパケット通信に手を染めたときも, 多くのアマチュア無線家が冷やかな視線を向けてきた. 当時はまだCQハムラジオ誌には筆者自宅の住所なるものが公開されていて, パケット通信の原稿を書かせてもらっていた私は, ごていねいに匿名の脅迫ハガキを受け取ったこともある. 現代ではこんなことが起こったら個人情報保護法違反で大騒ぎしそうだが, ネットの世界で似たようなことが起こっていることを思えば, 今も昔も卑怯な奴等というのは変わらず存在するのは同じだ.

そのパケット通信の世界でも, TCP/IPやNetNews/USENETが未来だという主張を受け入れた人達はほとんどいなかった. 1980年代当時のパケット通信を仕切っていたのが 現在でも強大な設備を持つ短波HFの遠距離交信を競う DXer達であったこともあって, およそHFのアンテナなど上げようのない立場だった 自分とは意見の一致のしようがなかったことを覚えている. だから今もDXerという言葉は好きになれない. もちろん真にDXerと呼んでリスペクトすべき人達も存在することは確かなのだが.

2002年の夏に思うところあってHFの電信(CW)を始めた時も, どこぞの匿名掲示板で何やら難癖をつけられたことがある. かようにアマチュア無線家と匿名掲示板というのは相性がいいらしい. 本質的に(自分を含めて)根性の悪い連中の集まりだからだろう. まあ,こんな連中を黙らせるには,相手にせずにさっさと自分が先に行ってしまうのが 一番の早道であるというのは後で実感したことだが. その後2003年にさっさと日本の第1級アマチュア無線技士と米国のAmateur Extra級の 資格を取ってからは,誰も免許のことで文句は言って来なくなった.

この10年HFをやってきて感じたことは, 結局のところ成果を出せば誰も文句は言ってこなくなるということ. そして,復讐を遂げたと思ったころには,競技場には屍しか残っていないということ. 言い換えれば,文句を付けて恨み言を述べるべき相手は, すでに死んでいるか,ゲームから降りているか,あるいは黙って首を引っ込めているかの どれかだということだ.

(写真は私が2009年9月にARRL DXCC Challengeアワードの盾をもらった時の記念に撮ったもの.)

2002年からの10年強の間に, 世界各地との交信を競うDXCCアワードにて ただのワイヤーアンテナと100Wで250エンティティ以上を叩き出し, 80m(3.5MHz)〜10m(28MHz)の8バンド合計で1100エンティティ以上の交信を実現できたことに 文句はいうまい.率直な話,幸運だと思っている. あの1976年に私をからかった人達が,この記録を見て,何と言うだろうか. 残念ながら,彼等の多くはもうアマチュア無線を止めているのだが. 当時の自分に語ることがあるとするなら,親父が言っていた 「今無線をやらなくても,いずれやる機会はあるさ」 ということだろうか. あえていえば,高いところにアンテナを上げるためのタワーも ハイパワーで運用するためのリニアアンプも持たないでいるが故の 限界は感じているかもしれない(笑).しかしこれは怨嗟ではない. ライセンスはあるのだから,やれる時にやればいい.

そんなわけで,今年からはマイペースで行こうと思う. 技術的にはまだまだやり残していることがあるし, 運用の世界でもまだまだ学ぶことはありそうだ.

最後に余談を. 日本アマチュア無線連盟(JARL)というのは,詳細は控えるが, 今の日本の製造業大企業をもっと悪くしたような最悪の組織である. 先代の会長は独裁政権を40年以上も続けていて,その弊害は著しい. かつてJARLの批判記事をWeb日記に書いたら「そんなことは言うもんじゃない」という 忠告があった.社会主義のソ連ではないが,それだけ日本のアマチュア無線の 世界は硬直しているのである. しかし,そのJARLも,いまや組織としては瀕死の状態であり, いつ崩壊してもおかしくはない.もはやそこにかかわっている人達の多くが, 組織の保存という自己目的化のためだけに活動しているような状況である.

でも,もはやJARLとはかかわらなくても,何の問題もなくなってしまった. 総務省とは免許の上でお付き合いが必要だが,JARLは支援しなくても アマチュア無線は十分楽しめる.紙のQSLカードだけがJARLの存続する 最後の理由だったのだが,今や交信証明というQSLカードの目的は Webサイトで十分実現できる.そして交信証明の必要なアワードが 自らそのデータベースのためのWebサイトを運用するという ビジネスモデルを米国の無線連盟であるARRLが実現してしまった現在, JARLの存在意義は無きに等しい. これはビッグデータならずともデータベースの積極的活用を推進している米国と, ビッグデータへの理解も技術もない日本との彼我の差が如実に出た例と言えるだろう.

日本に生まれ日本に住み日本の免許を持ち日本で電波を出している者としては 現在の日本の状況は甚だ残念だが,今後も日本以外の世界を見据えて せいぜい楽しんでいきたいと思う.これはアマチュア無線の世界だけではない 話になりそうだが.

そして,この話も「今時のアマチュア無線」の実情である.そう思って読んでいただければありがたい.