2008年8月5日

家族を持つことのリアルに充実した責任

7月の終わりに妻が家で転倒して,左足第五中足骨の骨折で病院に入っている.(注: 結局妻は2008年8月中旬に退院できた.)病院での生活はいろいろ物入りだから,ない時間を やりくりしながら支援している.お医者さん,看護師さん,その他いろいろな人たちの世話になりながら,こちらのお願いも最大限 聞いてもらわないといけない.家族としては自分だけでなく他人の責任も負わないといけないわけで,楽ではないよね.まあ,私も 入院経験があるし,不本意ではあるけどだいぶ場数も踏んだので,なんとかこなせているけど.今回はいつまで続くかな.退院して もまだまだリハビリがまっているし,少なくとも数ヶ月の持久戦だから,人生と生活を見直してダイエットするいい機会にしたい.

巷では「リア充」,というよく分からない言葉が流行っているみたいだ.個人的には,「リア充でない」人というのは,要は「孤独 感が消えない」「孤独であるのがイヤ」なのかな,と思う.でも,リア充であるということは,そんなに楽なことじゃない.人間同 士のかかわりを持つということは,応分の責任も生じるということだから,その結果からは逃げられない.言い換えれば,束縛から 自由でありたいなら,孤独に耐えることも必要だと思う.相反する要求を同時に満たすことは定義上不可能なのだから,他人に嫉妬 するあまり非現実的な怨念に基づく行為に走るよりは,覚悟して孤独に耐えるか,それとも人付き合いの苦労を受け入れるか,どち らかを選んで試行錯誤していくべきだろうと私は思う.その試行錯誤の量と質の両方が,後の人生に効いてくるだろうから.

実際問題として,国民国家 (nation state) や貨幣経済がある限り,その束縛からは逃れられない.また,社会に対して何かしたい と思うのは人間の根源的欲求だから,それを満たすには,いやがおうでもリアルな生活を充実するようにならないといけないだろう .束縛のリスクとチャンスを進んで受け入れられるかどうかが,人間としての生活力を高めていくきっかけの1つだし,そうでなけ ればとても不幸な人生が待っているような気がする.

他人とかかわれないのは,20歳代ごろの大きな悩みの1つだと思う.私も1986年~1990年頃の自分にとっての最大の課題が,いかに 他人とうまくやっていくか,ということだった.今みたいに世界に向かって1人叫んだ気になる(あるいは寝言ポエムを書く)仕組 みがあるわけじゃなかったから,常に対面の付き合いがあった.それは良かったのかもしれない.リアルな充実感なんて,何もなか ったけどね.ひたすら焦っていて,寂しくて,何かをしていたという記憶しかない.焦っているのは,今も同じだけど.

(初出: はてなダイヤリーのハチロクグループより)