2008年7月8日

日本で英語嫌いが許されない理由

以下,知っている人には当然のことを繰り返しているだけに過ぎないのだけど,「英語嫌い」といっている若い人達のために,書いておくね.

英語嫌いの背後には,私には排外主義が見える.誰だって,自分がどのように行動するかを決める権利を,他人に奪われたくはない.この恐怖が社会的なものになると,それは排外主義に変化する.しかし,排外主義の先に,幸せな未来はない.これは世界の歴史が証明している.

基本的に日本社会には「攘夷」つまり「外人お断り」という抜きがたい圧力がある.明治時代以前はそれで済んできたわけだけど,この21世紀に未だにそんなことをやっているのは,個人的にはお笑い以外の何物でもない.日本社会は他の国や地域の人達に支えられて,どうにか現状を維持できているのであって,そのことを無視すれば,大変なことになる.

残念ながら,排外主義をやっていられるほどの国力の余裕は,日本社会にはない.そもそも日本にはモノの資源はないのだ.だから鎖国すれば,皆飢えて死ぬのである.鎖国の結果がどうなるかは,国連から経済制裁を食っている地域の惨状を見てみたらいい.満足に医療器具や医薬品も買えなければ,もちろん最新の技術に付いていくこともできなくなる.

そして日本は,戦後はひたすら通商と加工貿易で稼いできた.つまり,ヒトの力で,泥のように働いて信用を築き,その信用の上で日本にないモノを手に入れて,今の社会を築いてきたのである.黙っていて他人がモノを売ってくれるわけではない.相手を説得できなければ,モノの売り買いはできない.

そして信頼関係はモノだけでは築けない.言葉のやり取りが最低限必要なのだ.日本語なんて,世界の勢力からしたら,辺境の特殊言語でしかない.これを不公平と言ったところで,現実に国連の公用語は,英語,フランス語,スペイン語,ロシア語,アラビア語,そして中国語の6つしかない.なぜドイツ語や日本語がないのかは,国際連合成立の歴史を調べてみたらわかるだろう.

自分の言葉が辺境の特殊言語,つまり自分の国や地域以外で通じない言語であることを知っている人達は,いち早くより通用度の高い言語を学んで,自分の社会を出なければならない時の危機に備えている.たまたまその1つが英語に過ぎない.たとえばフィンランドの人達の多くは英語を話すし,シンガポールでは植民地の歴史を引きずっていてもあえてどの民族の言葉でもない英語を共通語にしたという歴史がある.彼等は日本同様,資源のない国々であり,自らの言葉にこだわっていたらいつ経済的に窮地に追い込まれるかをよく知っている.

言い換えれば,日本はたまたま今満足に食べることのできる社会であるがために,日本語以外を満足に学ぶ機会が奪われているのかもしれない.そして,たまたま翻訳で勉強するという癖がついてしまっている人達が多いがために,知識の伝播にどうしても無視できない時間差が発生してしまっている.今はそれでいいかもしれないが,10年後,20年後にそれで済むかどうかはわからないのだ.

この閉塞した状況の中で,日本社会の中で抜きんでた存在になりたいのであれば,何らかの他の言葉は学んでおいて損はないだろう.そして,多くの技術情報は,すべからく英語で交換されているという事実も受け入れるべきだろうと思う.そして,自分の体は日本にあっても,日本国外からカネを取って来なければならない事態が個人レベルでも発生するだろう.その時に,国外に出ないで閉じ込もっていられるとは,思わないほうがいい.

(初出: はてなダイヤリーのハチロクグループより)